顔面偏差値至上主義

ルッキズムに殺されたオタク

Sexy Zoneの世界に至るまでの私の道(ロード)【備忘録】

この世に生を受けてから四半世紀が過ぎ、、、

いままで たくさんのもの に、もとい、

色んな男に熱中してきたが、(語弊)

コンテンツによってアカやSNSを変えてたので、自分の備忘録として一括してつらつらと残しおこうと思う。

全て愛を込めた上での表現のためご了承ください。


現在はまっているSexyZoneの話をしたいけど、

とりあえず時系列順に

私の  「推し事」  の遍歴である職歴

についてから始めていこう。

 

 

【幼少期】

 

初恋は実の兄だ。(突然)
そんな私が初めて家族以外で好きになったのは、

当時8時だJで活躍をしていたタッキーこと

滝沢秀明くん。

 

母の影響(タッキー顔ファン)で漠然とタッキー大好きと言っていた。


そう、当時はあの

伝説のジャニーズJr.黄金期

と呼ばれる時代だったのだ。

 

全国ネットでジュニアのわちゃわちゃが放送されていたなんて、今から考えるとすごいことだと再確認できる。
斗真がうんこのために収録一時退出した時は爆笑した。


近所のお姉ちゃんがジュニア担でタッキーのうちわをお土産にくれた。

それが嬉しくて小学校6年間ずっと部屋に飾っていたウブな幼少期を過ごす。

 

そんな中、なぜかは覚えてないが気付けば

二宮和也くんに担降りしていた。


人生で初めて自分のお金で買ったCD、

A・RA・SHI No.1が宝物という

スーパーピュアピュア女児👼🏻

嬉しくて毎日アルバムを枕元に置いて寝ていた。(紙の箱の包装だったため今ではシナシナになっている。)


クラスにも嵐が好きな子がいて、二人で休み時間はひたすらアルバムの歌詞カード中のニノを

妖怪のように舐め見回す毎日を過ごしていた。

 


そんな生まれてこのかたジャニーズにどっぷりだった私が、ハリーポッターの流行により

 

ダニエル・ラドクリフガチ恋する。

 

ハグリッドに君は魔法使いだ!と初めて教えられたときのハリーが

「あ、あいもんわっちゅ……?」(英語わからん)

のセリフを聞いた途端、私の脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。

どの辺に?と言われたらわからないがとにかくビビッと来たのだ。


部屋に飾っていたサントラの歌詞カードを広げるとポスターになるダニエルに毎日キスをしていた。

 

 これが私のファーストキッスである。

 


英語なんて全く習ったこともないのに、親には私、国際結婚するからと断言していた。
友達の影響で一時期FLAMEやLeadにも浮気をしていた。

 

 

【思春期/ジャニオタ第1期】


思春期真っ盛りの頃、

ふと日曜日のお昼にテレビを見ていたら

次の番組の番宣CM(このあとはー!みたいなやつ)で映る美少年を見て恋に落ちる。

即録画ボタンを押すとYa-Ya-yahという番組が始まった。


〜私の本格的なジャニーズ人生の始まりである。〜(序章)

 

当時天使以外の何者でもなかった薮くんの後ろでにこにこ笑う山下翔央に私は釘付けだった。


本気で山下翔央に一目惚れしたのだ。


しかし面食いな私は翔央一人では飽き足らず、ジャニーズジュニア全般にはまる。
その日から翔央を中心にジャニーズジュニアの在宅必死系オタクだった。


好きなジュニアが出ている番組なら一つもこぼさず録り溜めた。
少ししか出ていないCMも1回じゃ飽き足らず15秒CMだけで編集して1時間のDVDを作ったりもしていた。(自主編集ジャニーズDVD250枚は私の誇りである。)

 

ちなみにこちらは当時の時間割ノートである。

 

学生時代で唯一の恋愛イベントであった、当時仲のいい先輩に告白された時は、翔央が誰かもわからない先輩相手に

「翔央のことが本気で好きだから…」

と泣きながら断ったこともあった。泣きたいのは先輩のほう


当時会いに行こうと思えば会いに行けたのに、

私は絶対に在宅をポリシーに追っかけていた。
というのも中二病真っ盛りの私は

 

赤い糸を信じていたのだ。


翔央と私は赤い糸で結ばれてるから、

ファンとステージ上のアイドルとしては出会いたくない。

私たちは街でふとすれ違って出会うものだと…

 

当時の私は真剣だった。

 

だが、おませさんな年頃が過ぎ行く頃には

運命を信じていた翔央への愛もすぐに終わった。
いや、終わったというか実は最初からこの人だったのかもしれない。


そう、それが後に伝説となる

 

赤西仁亀梨和也である。


初めて見たYa-Ya-yahのコーナーで台北かどっかにタッキーと一緒に行った仁亀の姿を見た時から、誰かもわからずめちゃくちゃかっこいい人達だ…と思い、好き男の仲間入りはしていた。

 


当時のジャニーズジュニアはキラキラ爽やかアイドルというのが基本だった。
そのためやんちゃっぽいKAT-TUNの存在は、あまりにも、あまりにも、異質だった。

逆にそれが目を引いて、思春期の私はもちろんのこと中二病を発症していたためストライクどころの騒ぎではない。


そのくせちびっ子ジュニアにも優しくてもう言葉に表せないほど愛があふれた。

 

私の同級生は男女問わず、毎休み時間に私から『どっちが亀でどっちが仁でしょう?』クイズを出されていた。文句も言わずいつまでもそれに付き合ってくれていた超優しいクラスメイトたちだったので、彼ら彼女らはごくせんが流行る随分と前から亀梨和也赤西仁のことをしっかりと認識していた。そのためごくせんが流行った時にはとても鼻が高かったと成人式で声をかけられまくった。

今思い返すと仁と亀のKo年モ Ah Taiヘン Thank U Natsuの下敷きを交互に見せられて、クラスメイトからすると全然知らない若い男の顔を覚えなければいけない苦行でしかない。無視しないでくれただけでもマジ感謝。ありがとうLOVE。

ごくせんが放送していた時期には小田切竜というキャラ自体に惚れ込み、夢小説を漁り気に入った小説を書く管理人さんにメッセージでラブコールを送り続け、ついには私のために小田切竜の夢小説を何本も書いてもらうというようなよくわからないオタクでもあった。


そんなジャニオタ街道を突っ走っていた私は、実は仁がメイサと結婚するまで、

 

本気で赤西仁に惚れていた。


前述の通りぶっちぎり中二病が続いていたため、頭はお花畑状態で、

もちろん赤西仁と私は赤い糸で結で結ばれていると思っていた。


が、その時の私は少しだけ成長していた。

まさに大人の階段を登ろうと必死な思春期の女の子だった。

そんな私は、芸能人と一般人の関係は世間にはばれてはいけないということを

ちゃんと、ちゃんと…わかっていた…。

 


なので私は

 

仁と私の未来のために、

 

 

 

亀担で亀梨リア恋という仮面をつけ始めた。

 

最近、昔からの友達に

実は仁のリア恋であったことを打ち明けた時、

亀梨が好きだとばかり思ってたからと驚愕されるほどのカモフラージュに対して徹底していた。☜もっとほかのことに労力使え

 


前述の通りコンにも絶対に行かなかった。

少クラでKAT-TUNが歌う星屑のスパンコールを見ながら、「会いたいよぉ…」と声に出して泣く毎日。

仁に会いたい気持ちで仁と繋がっている冬の夜空をみながら涙を流したり、

仁に会いたい気持ちをポエムに書いて、1冊溜まったのちにネットに匿名で上げる

という最強に痛い学生時代を過ごしていたのである。


もちろん仁がいるので彼氏などいない、いらないという状態であった。

 

好きが積もり、学校のダンスの授業では、修二と彰を始め、ジャニーズの楽曲を自主編集し、ダンスを完コピして披露した。

先生から高評価をいただき学年全体の発表会でも踊らされたのは黒歴史である。

いや、今のところ全てが黒歴史ではあるが…☜


そんな毎日を過ごす中、KAT-TUNがデビューする。


今では好きな人が万人に見つかり国民的アイドルになることほど素晴らしいことはないと思っているが、当時の幼稚な私は大勢に知られ、人気が出ることが嫌だった。

誰にも理解されない、大人なんかに左右されない、私たちだけの!私たちが守っているKAT-TUN!ぐらいの気持ちだった。

これが俗に言う反抗期かもしれない。(違う)
みんなが好き!となると途端に興味がなくなる系のよくあるアレだ。


なんせジュニア時代から人気があったため大型デビューという形になり、私の中のKAT-TUN愛に陰りが見え始める。

しかし仁への気持ちは全く揺るがず

俄然私は仁の運命の人であった。


しかしそんなデビューしてちょっとした頃に仁が留学をする。
大好きな仁亀コンビすらも拝めなくなり、毎日に絶望する。


そんな中私を支えたのは

草野博紀だった。
Ya-Ya-yah担時代は、うろちょろしてかっこよくもないし博紀が嫌いだった。


しかし、NEWSがデビューする直前くらいになにがきっかけかは忘れたが、私は一瞬草野きっかけでK.K.Kityが大好きになっていたのだ。

ズボンの股間が破れながらも歌い踊った千年のLOVE SONGは伝説だ。
そこからは草野はまあまあ好きポジションだったが、仁がいなくなってぽっかり空いた穴を埋めるにはばっちりのタイミングでNEWSニッポンのPVを初めて見たのだった。


しかし、草野への想いは長くは続かず、

やっぱり私は仁が好き。

 

仁と一緒に人生を歩いていきたいと、改めて気付いた。


その夜、仁が帰ってくる夢をみた。

その日起きたら仁が帰国したことを知らせるニュースで各新聞の一面が埋まっていた。
100%ただの偶然なのに、

拗らせリア恋の私はこれは運命だと確信した。

もう手が付けられない。
仁が戻ってきてからも必死に在宅で追っかけた。

赤い糸で結ばれた運命の人だと信じて…

 

そんな学生時代、

仁に本気に恋をしながら、私は友達に教えられた

ミュージカル テニスの王子様

に手を出す。

 

当時ニコ動や2ちゃんで有名だった

「あいつこそがテニスの王子様」という曲がキャストの滑舌が悪く空耳がすごいと話題になっていたことを友達から教えられ、馬鹿にしていたらいつのまにかハマっていたのである。

あいつこそがテニスの王子様 - YouTube

(↑はようつべver.)

 

 

氷帝初代と青学2代目に没頭していたが当時は既に4代目が公演をしている辺りで、再び友達に4代目の良さを教えられ4代目がこの世の中心というような人生に変わった。

 

リョーマ役の阪本奨悟のショタっぷりに跪くしかなかった。

しょごが飼っている犬が私の愛犬と同じくビーグルというだけでしょごは私の弟なのかもしれないと錯覚していた時期もある。

 

跡部のそうる問題にはオタクと一団となって声を荒らげていたし、東京凱旋で加藤和樹が帰ってきてSeasonを歌った時は一生この涙は止まらないんじゃないかとも思った。

* Season 凱旋ver. * - YouTube


つまりは若手ミュ俳優全般にどっぷりしてしまったのだ。

しかしハッピィ★ボーイズというドラマを見てからは

鎌苅健太、ただ1人に心を捧げていた。

 

 

当分はケンケン一筋で推していたが、親が1度だけ激しい夫婦喧嘩をしていた時、怖くてたまたま近くにあった通が表紙のキャスプリを抱きしめ、「通…助けて…」と口走ったことがきっかけで

桜田も私を救ってくれた恩人として大切な人になった。

ちょろいオタクである。

 

ケンケンが休業していた時は心を痛めながらニコ動のSeasonの動画にコメントをし続け、2008年の誕生日の復帰の際は一生ケンケンの笑顔を守ると固く誓っていた。

 


高校卒業間近の頃には仁への恋心と共に、

ジャニーズ自体は無意識のうちに卒業していた。

これが仁と私の自然消滅というやつである。(違う)

 

ちなみに、ジャニーズ以外で

FCに入ったりライブ行ったりして追っかけるほど好きだったのは

大塚愛RIP SLYMEアンダーグラフELLEGARDENマキシマムザホルモン

です。(突然?)

 

 

【大学時代】


進学のために上京した私。
それと同時に、夢にまで見た街でばったりができる境遇になったにもかかわらず、仁への恋心も消え、新たな恋に立ち向かう。


前述のケンケンが出ていたハッピィ★ボーイズは執事喫茶がテーマのドラマである。

それをプロデュース協力していたコンセプト喫茶に行ってみたいと思った私。


〜現場系オタクに変わった瞬間だった〜

(第一次オタク確変期)

 

その店こそ、池袋にある、

かの有名な

執事喫茶Swallowtail

である。
兄にお願いして二人で行った日を境に、

 

生まれた時から親が大事に貯めてくれていたお年玉貯金の80万円が底を尽きるまで毎日朝から晩まで通いつめた。

※人生最大の後悔点である。


朝ごはんをスワロで食べて授業を受け、

昼ご飯をスワロに食べに来て授業を受けて、

夜ご飯をスワロに食べに来て帰宅

という毎日を休館日を除いてガチで続けていた。

学校と家は徒歩10分で家から池袋までは電車で30分。

謎に池袋までの定期を持っていた。


イケメンハンターの私は1店舗では飽き足らず、コンセプト喫茶といわれるものはすべて網羅していた。
眼鏡スーツ喫茶Love-all

男子校喫茶Edelstein

兄弟喫茶PINE TREE

絵本喫茶マ・プレフェレ

執事喫茶Royal Servant

ギャルソンカフェ etc.

と各店通いつめた。


当時コンセプト喫茶自体がまだあまり知られておらず、ガチで毎日朝から晩まで来店している客は少なかったこともあり、店員さんもさすがに覚えてくれていて、楽しい時間を過ごしていた。

 


《推しが1対1で対応してくれて、認知してくれるという現場のすばらしさ》

に気付いてしまったのだ。

 ただ某店のスタッフと繋がり、破局したことにより初めての本物の失恋の辛さにいてもたってもいられず、

私はコンセプト喫茶オタクを卒業する。

 

その後、池袋で生息していたためもちろんのことアニオタにもなっており、

ニコニコ動画関連のオフ会

に手を出した。
まだカラオケオフ会自体が少ない時代だったためブイブイ言わせてた。(古い)

歌が不得意な私は次は踊ってみたオフ会に手を出した。

踊ってみたがまだ人気が出る前の時期であり、こちらも人口が少なく、ダンス経験者が少なかったため、幼少期よりダンスをしていた私はここでもブイブイ言わせていた。

 

オフ会と同時進行で主に

声優オタ・若手俳優オタに完全に戻り、楽しく毎日を生きていた。

 

学校のゼミ関係で好きが振り切って神谷浩史のイベントスタッフをして、一声話しかけてもらいファンになり、後日偶然丸ノ内線で同電になり一瞬運命を疑いリア恋になりかけたり、テニミュが好きすぎてそれ関連の会社にバイトで入り、来社したケンケンにお茶を出すと言うようなこともあった。

スーパー行動系オタクであった。

 

【成人~】

 

高校生までジャニーズのために生きてきていたため、「好き」発展し、ジャニーズ事務所のマネージャーになりたいと思っていたため、芸能関係の専門学校に通っていた。

しかし就活時の私は既にジャニオタを卒業しており、声優兼アニオタだったためアニメ業界の職につくという公私混同オタクだった。


プライベートでは

ラブライブ!プロジェクトが雑誌で発足した時よりどん底にはまっていた。
当時ラブライブ!初期にガチの追っかけをしていた女の子の数が少なく、

にこちゃん役の徳井青空ちゃん

通称そらまるに認知してもらえるのに時間はかからず、レスをもらえる度に

そらまるに一生ついていくゾ!!!!!!!

と言うようなオタクだった。

 

それと同時にニコ動のオフ会は飽きて

アニソンクラブ

にはまる。

当時はコスプレもしており、女の子が比較的少なかったためチヤホヤされていい気分を味わっていた。

平日は馬車馬のように駆けずり回って仕事をして、

休日はクラブでオールナイトで踊りあかすという、

スーパー若者スタイルな毎日を過ごしていた。

 

なお、会社からの帰り、渋谷の超入り組んだ中の道を歩いていると、キスマイの玉森とすれ違う。

事務所入所した時期ぶりに見たため、大人になったんだなあとびっくりしながらもそれ以上興味は沸かなかったため、ジャニーズか…久々に目にしたな…と思っただけでそのままスルーしていたという時期。


何事も好きになると一直線の超絶B型タイプの直角人間の私。

ラブライブ!矢澤にこちゃんが好きすぎて、

矢澤にこちゃんになりたかった。


矢澤にこちゃんは秋葉原メイド喫茶で働いていた経験のある設定のキャラだった。
その情報が世に出た瞬間、

会社に辞表を出した。


もちろん秋葉原メイドさんになるためである。(まだ応募も合格もしていない)
時は萌え産業が盛んで、制服のサイズさえ入れば誰でも合格するメイド全入時代だったため晴れて秋葉原住人になれた。


毎日ツインテールをして赤リボンをつけて店内はラブライブ!の曲を流していた。

外見のにこちゃんっぷりを保つため、1週間に一度美容院で長さを整えていたほどである。

髪型の前に顔面と体型をどうにかすべきだと言うことに気付かないのが盲目なオタクの典型である。

たまたまそらまるが取材でうちの店に来てハグをされたことは一生の思い出である。


しかし、どんどんとバイトリーダーに近づき、自由奔放にへらへら遊んでるだけではいられず、店の重大なことも任され始めた。
それと同時期ぐらいにアニメが始まり、世間に知れ渡ったことで私のラブライブ!への興味が薄れていった。

よくある人気が出たら興味(略)
私は矢澤にこになりたかっただけで、この店に骨をうずめる気などない。

ラブライブも飽きてきていたため、キリのいいところで店を辞めた。

呆れるほど熱しやすく冷めやすいオタクである。

 

 

ラブライブ!以外にも、若手俳優は地味にまだ好きでケンケンが所属していた、ココア男。をメインに現場を追っかけていた。

ココア男。 / Rebirth - YouTube

 

しかし2013年にはケンケンと二足のわらじで追っていた、通が留学で休業の発表があった。

その日あったアニクラでのオタク。キモすぎ。

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留学休業のルートが赤西仁が被り、通まで俳優を辞めてしまうんじゃないかという不安感と、当時の彼氏と婚約しておりマリッジブルーが相まって、全てが嫌になっていた。

そのため、大好きだった東京に全く未練もなく、結婚するまでの間、最後の親孝行だと思い実家に帰ることに。

1年後にはいいお嫁さんとして東京に戻ってくるゾ!といった感じで意気込んでいた。 

 


実家に帰ったその日の夜、

今夜の番宣CM(今日の○○時からは~みたいなの)で気になる男性アイドル軍団を2グループ見た。☜
このパターンは人生2度目である。ちょろい。


録画をしたのがDISH//だし!とBOYS AND MENの激愛宣言(特番)である。


DISH//はビジュアルもよく胸が高鳴り、今後も毎週録画をした。
しかし、BOYS AND MEN、通称ボイメンはビジュアルは芋くさく、やってる内容も芸人ばりのわちゃわちゃ感だけで見た目も相まってパッとしないというようなものであまり目を引かなかった。

初めて見た番組内のライブコーナーでも、歌い出しが

「院卒と言えば  大学じゃなくて少年院」と言ったような

は?(爆笑)

となるようなものだった。

 


しかし、半年両グループを在宅で録画番組を何度も見ていたら、なぜか私はいつのまにか

 

BOYS AND MENのキモオタになっていた。

 

私の中のDISH//の面影は全く無くなっていた。

ボイメンの初期の曲はダサいのが多く(今となっては褒めてる)、ネタで馬鹿にしながら見ていたらそれが癖になりいつのまにかハマっていたのだ。

BOYS AND MEN - YouTube

テニミュの空耳からハマったパターンと全く同じである。

成長しないオタクだ。

 

当時のボイメンは知られてはいたが、そこまでファンがいるわけではなかった。

180人規模の自主スタジオがあり週4~5公演を行っていた。

当日券で入れる場合もあったため、毎週2~3回は会いに行き、連続計2年半ほど途切れることなく毎週会い続けていた。頻度が彼氏レベルである。

なお、たまたま高校時代の友達もボイメンオタをしており偶然にも再会し、さらにボイメン現場に通う頻度が高くなりまくる。

当時チケットは先着順だったためメールやネット、店頭販売機の練習を欠かさず、実力で1桁の整理番号を取り続け、整理番号4番以降の遅いものはクソだというのが私の中の常識になったほどだった。

抽選制に変わった際は1公演のチケットを取る際は3セットほど発券し、最悪紙切れにしてでも自ら良席を出すという自分たちの力を信じて頑張るドルオタであった。クズである。

 

ボイメンに夢中になり一年間限定での実家帰省のはずが、一生実家でボイメン追っかけていたい!ナヨナヨの女々しい彼氏なんかと結婚してられっか!と婚約までしていた彼氏と別れ、男らしさの塊である目の前の推しにどんどんと心酔していった。

推しに夢中すぎて婚約者を捨てるというドルオタの鑑である。(違う)


ボイメンの良さは何と言っても、認知!!!レス!!!!である。

 

認知とレスに全てをかけていた。
現場がすべて。在宅は死ね。というカスオタだった。
ファンサやレスがないとか会いに行く意味なんてあるの?(笑)

っていう考え方になっていたため、

ジャニーズはまっていた過去の自分は馬鹿じゃないのか?(笑)とまで思っていた。

この100%レスありきの現場を経験した今、初回認知のないジャニーズにはまる気持ちが全く理解できないとまでほざいていた。


男性芸能人って大まかにジャニーズとジュノンという括りだと思っており、もちろんボイメンはジュノンに載る側のグループだ。
そのため、過去、心底愛していたにも関わらず、ジャニーズに嫌悪感を抱き、ライバル心を燃やしていた。

 


一生ジャニーズにはまるかwwwwレスも認知もない芸能人とか推す意味wwwwwwwwwwwwww

が当時の私の考えであった。

※数年越しの盛大なる前振りである。


毎回1対1で会って話せるというのがボイメンの特典の最大の素晴らしい点だ。

CDが出る度に別にオリコン1位信者ではないのに、特典を受けるために気付けば毎度総計で1シングルにつき80枚ほどは買っていた。

今まで同じCDを2枚以上買ったこともなかった私だが、私の周りが3桁を優に超えるほど買う友達だったため私たちの購入枚数の常識というものがぶっ壊れていた。

友達から教えられたことで心に残っている言葉は

「日程や内容で迷うならやめとけ、でもお金が足りなくて迷うなら借金して買え」

である。

 

そう色んなところから借りたりかき集めたお金でCDを買ったとしても、特典はもちろん相手も人間のため、推しの気分や対応でこっちの気持ちも左右されるのである。


私の推しはあまりファン対応がよくない塩対応メンバーだったため、それに一喜一憂することに疲れ切っていた。☜彼氏かよ

推しの嫌なところが目につきながらも、

ここまで推し続けてきた歴を思うと辞められないというような負のスパイラルにまいっていた。

なんで好きなんだろう…と思いながらも過去のレスや嬉しかったこと、ピュアでいつでも好対応だった時代の推しを思い出してしまうと留まってしまっていた。


ただ他のメンバーもいい子ばかりで箱推しだったため、推しで傷ついてもほかのメンバーに癒されたりして、

クソDDとして生きていた。

 

おまけに私は新しいもの好きのイケメンハンターだ。

片手間に推し事増やしちゃう系のちょろオタである。

名の如く

ボイメン研究生の10歳以上年下の子を自分が腹を痛めて産んだ息子だと錯覚しガチ推しする事もあれば、

東海発!MAG!C☆PRINCE

にも軽率に手を出していた。

そう、ジャニオタには有名な元ボイメンの平野紫耀くんの従兄弟の平野泰新くんだ(たぶん)

ついでに東海テレビ発足の

ザ・ラストヒーローという

ふんどしの一丁で演技を勉強する俳優集団も推している。


だがやはり片手間に色んなものに手を出そうとも絶対にボイメンが一番で、その中でも推し変することなく、推しが圧倒的一番という気持ちは全く揺るがなかったのである。

そんな私の心がサラッと綺麗にSexy Zoneに奪われたのはまた改めて別に書き連ねようと思う。

まあボイメンは今も一応好きなため、セクゾにはまった現在も推しメンを含めて優先順位は2番ではあるが推している。

 

 

 

と、やっとセクゾ前までをつらつらと書ききった!!!
頑張った!!!
最強に気持ち悪くて痛いけどあくまでも記録だ!!!
黒歴史も笑えれるのなら無問題。